退院してから一週間が経った。
ずっと続いていた微熱もおさまり、咳き込むことも減った気がする。懸念しているのは息切れの後遺症で、これだけはいつ治るか分からず、取りあえず薬を追加して様子を見るということになった。順調に回復している。
ただ合計で三週間近く安静にしたこともあって、肉体の衰えも実感している。お腹の肉も減ったが、筋肉も減ってしまった。少し歩くだけでも大ダメージになるから、食事のバランスと息切れが酷くならない程度の運動もしなければならない。
職場復帰はまだ少し先の見込みで、向こうからはほぼ万全の状態で戻ってきて欲しいという意思を感じる。しかし職場体制が変わっておらず、戻ったら地獄が見えているだけに優しいのか優しくないのかよく分からない。
精神を病む以外の大量有休消化は想像していなかっただけに、変な気持ちだ。また分かりやすく復帰できるものもでもない。予期せぬ合法ニートになった。
あのまま職場で使い潰されることを考えたら、大変な思いをして二度と味わいたくないものの、この休みは自分にとって良かったのではないかと思ったりもする。
生活習慣や身の回りのモノの一新、やりたいことに対する行動についても一通り考え直すきっかけにもなった。
それでも迷惑かけるところにはかけてしまったから、めでたしめでたしとも言えない。自分自身を粗末に扱っていたという反省もあった。
嘆いても、悔やんでも、感謝しまくりだけでも違う気がして、お世話になったところには御礼しつつ、そのお陰でプラスにできましたぐらいの報告はできるようにしいていく。
「OVER 結果と向き合う勇気」 上原浩治著
2019年、上原浩治は引退した。
シーズン途中だったこともあり、私の衝撃は大きかった。その年ばかりは投げてくれると思っていたからだ。野球が好きになってから、上原浩治は私のヒーロー選手であり、草野球では彼と同じ19番の背番号を使うほどのファンだった。
中学時代の修学旅行ではミニストラップも買った。今でも宝物だ。引退のニュースには涙せずにはいられなかったほどである。
さて引退直後に出た本書だが、読み終えるまでにかなり時間がかかった。発売してから何年経っとんねんという話だ。別に読みにくい本というわけではない。
読み終えると「私の中の上原浩治が終わってしまう」という気持ちが出てきてしまったからだ。その気持ちが本を何度も閉じさせた。
野球を引退したからといって、彼の存在が消えるわけではなく、彼の人生も続いていく。当たり前のことだ。普通にYouTubeやっもいる。しかし、私のヒーローのあり方が変わるというのは、中々受け止めにくいものだった。
ところが、私に思わぬ病気療養期間ができて、本書に集中することが出来た。
「人間何が起こるか分からない。読める内に読んで、次へ進もう」
練習の姿勢や考え方、引退までの経緯が前半には綴られている。
後半はテンポ良く、「結果と向き合うこと」について語られている。
かなり時間はかかったけれど、私はようやく上原浩治の引退を受け止めたのである。
生還報告
急なことで生まれて初めての入院を経験した。長くなるのでそれらはまた書くこととして、結果は二週間以上、会社を休むことになった。向こうは大変だったと思うが、こちらもこちらで大変だった。「いざという時のために」用意していたマニュアルは想定を通り越していて、活躍できなかっただろう。そちらは考えないことにした。もうただ医療機関に身を委ねる他、できることは何もなかった。
対して、私が大変になった時、すぐにそれらを対応してスケジュールを組んだ某組織に関しては勤め先よりしっかりしている。日頃の意識の差なのか、それぞれに持っている能力の差なのか……。
入院自体は一週間と少し。
己の中の考えが劇的に変わったかと言われたらそうでもないが、今後の方針も流石に変わった。一つの契機になったことは間違いない。静養しながら準備を進めていく。
入院の中でもかなり特殊な経験をしてきた私は、あの特殊な生活環境からの脱却と、後遺症が治まるのを待っている。
「もう戻ってこないように気をつけてくださいね」
看護師さんの苦笑が浮かぶ。
私も苦笑する。
流石にあの経験はもうしたくない。確率としてはゼロじゃないけれど。
大人の夏休み
けっこう楽しかった思い出で、その時一回だけであったものの、今でも時々思い出しては「またやりたいなぁ」と考える。
社会人二年目に上司が一人辞めることとなり、何でやめるのか聞くついでにバーベキューをやろうという話になった。私が一番年少で先輩や他二人の上司と見送られる上司で川沿いにあるバーベキュー場に行った。どうしたもんか、その時は水着に着替えて川で泳いだことも覚えている。
企画した上司ともう一人の上司がバーベキュー好きで、何か動こうとする私に「お前は動かずに食え」と楽させてくれたことも嬉しかった。当時の私はガリガリでブラックの職場についていけず、倒れたこともあった。
「何か困ったら栄養は充分にあるから、焼肉のタレだけでも食え」
「昼休憩は少なくとも30分取れ」
とか、教えて貰ったこともそこだった。
あとは女児集団に水鉄砲で弄ばれてクタクタになって休んでいる間に、そのお母さん集団と上司たちが楽しそうに遊んでいて「どうして……」となったことも覚えている。あの時いた子たちも、二十歳を超えるぐらいだから恐ろしい。
川で泳いだり、バーベキューしてビール飲んでゆっくりする。
一日だけだったけれど、あの日は確かに楽しかった。
もう10年以上前で皆年とって、それどころではなくなってしまったことも少し寂しい。
原爆の日
中学校三年生の時に広島の平和記念式典に参加したことがある。地元市内の中学校から二人ずつ参加して、一泊二日の行程であった。因みに、広島に行ったのはこの時が初めてだった。
行くことになってから初めて知ったのだが、父方の祖父は広島にいた。
原爆にあった時は爆心地とは山を挟んで反対側の工場で働いていたため、工場は全壊したものの、五体満足で生き延びた。
そこからの話は長くなるので、割愛するが、祖父は親族でも私にしか原爆の話をしなかった。それもたった一度だけのことである。小説を書くようになってから、一度だけ。色々と言いにくいこともあったようだ。人の生死に関わることも多かったのだろう。
「一つ書いてくれや」
そう言われてから、未だその小説は完成していない。早く書け、という話だが。
そんなわけで、8月6日になると祖父の夏に想いを馳せることになる。職場で暑中見舞いを発送し忘れたことを頭の隅に追いやりながら。
嫌いなもの
連日の酷暑に休日の引きこもりが加速する。
勤め先では外出の用事があるから引きこもってもいられない。
上がってくるのは「~の~がコロナになって、濃厚接触者ではないのですが……」という話。気軽に相談できる体制はいいが、その度に地獄を見る人間がいる。
私だ。
何かある度に用事ついでにPCR検査キットを買いに行かされるのだ。大量に。先日は外出途中で急に指示が出た。財布にお金がないにも関わらず、預金を引き下ろして立替せねばならなかった。
嵩張って持って帰るのも中々にしんどい。
自動精算機に吸い込まれていく万券を死んだ目で見つめながら、「なんてボロい商売なんだろう」と心中の嘆息。一先ずの安心は3,000円と安いのか、高いのか。よく分からないが、しんどくなってタクシーに乗った。
会社までの運賃は3,000円で、偶然にも自分のしんどさと検査キットの一個が同じ値段。変な気分だった。
そんなこんなでお陰でこいつをとても憎らしく思うようになってしまった。どれぐらい憎いかといえば、今更検査を推してくる議員を畜生に思うくらいに。
不満が爆発して酒を飲んでいると「企業都合で採用活動中止にします。ごめりんこ☆」というメールが。
この一週間、面接の時間を確保しようと動いていたことが無駄になった。
「あーもー。いいですよー。自分でやれってことですねー」
それでも明日は来るから、ふてくされてもいられない。
動画制作
最近、動画を作っている。物書きであるからして、編集等々は人に任せようと思っていたのだが、BGM等の素材集めからハマり、楽しんでやっている。書籍制作も楽しいけれど、動画の方は知らない世界だっただけに新鮮味があるせいかもしれない。成果物がすぐ目の前にあると心の安寧にも繋がる。
もちろん、目的があって始めた。公に公開するには、修行も必要だが、時代も時代で動画あるのとないのとで変わってくるよねとも思う。動画編集できる人がいなくて宙ぶらりんになっていた案件とかも数年を経て進み始めたりした。何が足りなくて、何を撮ればいいかを注文できるようになったのも大きい。
一応、結婚式で見せられるようなアレよりはイイものを作っているつもりではある。
しかし、自分が動画を作るとは思ってもみなかった。
弟に話すと「いずれやるだろうと思っていた」と平然と答えた。私より弟のほうが私のことをわかっているんじゃないか。