翠嶺クラフティング

個人作家、上住断靱の活動記録

祖母を見送った日

 先日、父方の祖母が亡くなり、見送ってきた。御年89歳。大往生であった。
 昨年の夏に施設に入ってから認知症が進み、最後に会った時はそれほど話すことができなかった。

 彼女がまだ元気で、ゆっくりと思い出話もできたのが施設に入る前の食事会である。鰻弁当を取って、私と父母、叔母という少数の集まりだった。
 祖母は小さい缶ビールを飲み、私たちがアメリカ在住時に祖母も手伝いに来た時の話や、小旅行に行った時の話など、楽しそうに話していた。

 神戸の祖母宅へ数か月おきに皆が集まっていたのは祖父の法事をきちんとしていた頃だ。人がよく来て、結婚や出産などで新しい顔が増えた時でも会った。祖母はその頃が一番楽しかったと話した。それが途絶えたのはコロナ禍に入ったからである。

 祖母はアクティブな人であったから、老人向けのヨガ教室やカラオケにも参加していた。

 カラオケはコロナ禍でなくなり、ヨガ教室は高齢で参加していたために、やんわりと言われて追い出された。年を取るとつまらなくなるというが、正にその通りだなと思っていた。

 祖父はすっと旅立っていったが、祖母は逞しい生命力を見せつけてくれた。

 医者にいよいよだと言われてから、骨折も治れば、肺炎からも快復し、私たちを驚かせたものだ。最後は流石の祖母も食事を摂れなくなって亡くなった。どのタイミングかは分からないが、鰻を食べたいと言っていたらしく、お粥にタレをかけて食べて貰ったそうだ。

 最後に食べたがっていた鰻を施設に入る直前、一緒に食べられたことは幸いだったと思う。

 祖母は天然であった。

 我が両親結婚の際には結納金を封筒に入れ忘れて、結果として場の緊張感がとけたこともある。

 祖父が亡くなった時には、棺に花と一緒に数珠を入れてしまって、祖父と一緒に燃やした。

 彼女のしでかすことはほどよくオチがついてコントのようだった。

 祖父母の家は処分することになりそうだ。

 阪神淡路大震災で「全壊」と判定されたものの、祖父が自力で修繕した家は、よく預けられていた私にとっても思い出の場所であったが、いかんせん手狭で古いから仕方が無い。

 寂しくはあるが、祖母のことを胸に私は私で自分自身の旅を続けていかねばならない。