真田HFA

個人作家、上住断靱の活動記録

最近は企画書とプロットのやり直し

 創作の仕事は一つ終えた。

 思ったより好評で、手ごたえも感じたが、すぐに次の仕事が始まっている。こちらのほうはなかなかにハードだ。慣れない作業が多い。まだ効率化できておらず、思ったより時間を取られている。

 

 小説の仕事の方も進んでいる。

 社長と打ち合わせし、その結果を企画書やプロットに落とし込んでいく。また作家仲間に感想と意見を貰いにいくことを繰り返している。あと3~4回はやり直すと思う。

 同時に自分自身の小説家としてスキルアップしようと自作品も出している。

 今年は創る年にしようと意気込み、結果的に仕事としても増えたことは嬉しい。

 しかし、まだ追いついていないところもあって、もっと集中しなければなと反省している。ついついよそ見をしてしまう悪い癖だ。

 

 今を乗り越えるとどうなるか分からないけれど、これらを進めながら、止まってしまっていることも解決していく。

 自分のビジネス書も出す予定だった。あれも進めていかねば。

冠にAIつける人間は5年後いなくなる

 AIが台頭している。

 これは紛れもない事実だ。

 今までその素養も無かったカス共がAIで何かができるとのさばっている。

 勉強無しに世の中わたっていけるほど甘くはない。

 それすらも忘れてお気楽に誰かから貰ったプロンプトを打ち込んでいる。

 阿呆か。

 買う側も阿呆なのだが、これらは放置してかまわない。

 買う側のリストを今から作るというのであれば魅力は十分カモしれない。

 正直、今だけだと思っている。5年後には彼らの一人も残っていないだろう。この現象と熱意はかつて経験したものと似通っている。それなりの精神性か何かがないと生き残らない気はする。

 少なくとも自分でプロンプトを考えて作業を効率化できるものは生き残れるだろう。

 

 我々がかつて通ってきた道にそっくりなのだ。

 Kindle個人作家

 今も名乗っている人はどれだけいるだろうか。

 あの頃に有名になっていた人は今でも作品を発表してそれで飯を食えているだろうか。

 今や15年近く経って続けている人は限られている。

 雨後のタケノコのように出てきても矜持がなければ伸ばしきることはできない。

 逆に名乗る必要もなくイベント出店で食っていける人もいるほどだ。

 

 気持ちが良いことは、私がそれなりにリスペクトを持っている人たちが一切、これに乗っかっていないということだ。

 ライターとしてAIを名乗った瞬間に自分を殺しているも同じである。

「AIがないと書けないでちゅう」

と他のニワカと一緒になるからだ。

 土台が無かったと言っているも同じだからである。

 猫も杓子もAIと言っている時にAIを名乗ってどうするのか。AIがあるけれども、それを認めつつ自分が本物である理由をなぜ語れないのか。

 そんな奴は書き手として雑魚である。

 

 ただ、AIを利用するなとは言っていない。

 作業を効率化や諸々便利なところは確かにある。

 わざわざ使っていますという必要がないだけだ。

 

 それと同じ意味で

「AIに相談してみた」

もいらない。

 

 なぜ、恥部をさらけ出す必要があるのか。

 それで誰かが助けてくれると思っているのか。

 それは診断メーカーの延長ではない。

 AIとは何かを分かっていない人間という暴露である。

 

 しかしながらAIを上手く使って面白いことをやる人たちもいる。

 彼らは冠に「AI」を戴かない。

 きちんと表記する必要があって出している。拘りもそれなりに持っている。

 

 某ゲーム仲間から私の名前をもじった「ダンジン」LINEスタンプが出た。

 それなりに笑った上に、自分より何かのキャラが表に出た面白さがある。

 AIがなければ起きなかった面白い現象なのだ。

https://line.me/S/sticker/33304446?_from=lcm

亡き旧友の誕生日に

 Facebookが亡き友人の誕生日を知らせてくる。

 彼とは小中学校と同級生でだったが、卒業してからは会っていない。Facebookで見かけてそのまま友達申請をして、お互いの活動に対する投稿に「いいね」を押すだけの関係であった。彼は社会人をやりながら音楽もやり、それなりに充実してそうではあった。

 しかし、癌が発覚し、闘病生活に入った。

 生きることや、やることへの意気込みの投稿を見て、頑張っているんだなと、それでも特別連絡をしたわけではない。

 数年前に彼の兄から亡くなったことを知らせる投稿があった。

 私はお悔やみの言葉すら述べていない。

 近年、関わっていなかったこともあった。

 卒業してからSNSで時々知る関係で、生前、闘病中、死後も私にできることは何もなかった。

 

 お兄さんの言葉から、彼が亡くなるまで懸命に生きようとしていたことが分かった。

 ただ、彼が夢を追っていたことや、それも少しずつながらも進んでいたこと。その矢先で亡くなられたことは何ともやるせない。

 そんな彼の誕生日であったと、Facebookは機械的に送りつけてくる。

 仕事の連絡メッセージを書きながら、昔の彼とのやり取りも思い出していた。

 

 私が知らないだけかもしれないが、同級生で亡くなったのは2人だ。

 どちらも無念の死であったと思う。

 私が彼らにできることは何もない。

 しかし、彼らの想いを胸に生きることはできる。

 無機質な通知に気持ちを改めた。

真っすぐ

 作家名の出る仕事が始まっている。

 自著以外では初めてであり、昨年は名前の出ない仕事を経験できたが、比較的軽いものであった。後から修正の可能性もあるから、プレッシャーというものが薄かったのだ。名前が出るということは嬉しいことでもあると同時に重みがある。

 

 結果として、やることも思ったより多くなった。流石に少し緊張している。書く仕事も年々、進化していき、当初通りのところもあれば、思ったものと違うこともしている。最近は自作品出ていないなと反省しながら、チマチマ書き始めたところへこの話が舞い込んできた。あまり詳しくは書けないが、現段階では企画書を作っている。

 

 まだ完了していない仕事も少しずつ進めているところで、時間を効率良く使うことがより大事になっている。少し油断すればすぐに気持ちの余裕が無くなる状態だ。

 

 先日はいらぬことをして大学時代の先輩たちに説教されていた。一家言申したくなってしまったが、何かになりそうなものはスルーしておくべきだった。対応に時間を取られることになってしまう。

 逆の意味でそういったものには捉われない気持ちの余裕ができた。

 いらんことをしている時間はないのだ。

小説の仕事

 出版社からの依頼で仕事がくれば、それなりの小説家なのだろうか。私自身が出版社をしているために、そういったことは元々ハードル高いものがより縁遠くなっている気がする。

 自分の作品については、自分で企画を立てて書いていくことのみ考えていた。

 ところが最近、人との縁もあって、小説を書く仕事が個人から舞い込んできている。思わぬところからの仕事というのは驚きもあり、嬉しくもある。自分のメインとしているジャンルではないから、「やりたいこと」とは違うものの、創作について期待され、お金になるのは一つ進化したような気がしている。

 そういった仕事が広がりそうだなと感じながら、二年近く出ていない私の新作も書き上げていく。アイデアのストックばかりがたまり、積みあがっている状態だ。あるあるの話だが、人のことをしていると自分のことは後回しになってしまう。

 その手が止まっている間は創作スキルも上がらない。書くことは増えているだけに、何か見えない技術は会得しているように思うのだが、目に見えないから何とも言えない状態である。今回、仕事がきたのは強制的に創作をする時間を仕事の時間に割り当てることができ、非常にありがたい。ここのところ、停滞しているなと思っていたが、また一つ違う自分へと進化していけるきっかけになりそうだ。

 もっとも、依頼主に創作物が気に入ってもらえなければ終わるというところもあるのだが。

 

2025年最後の月に

 前回の更新からだいぶ経ってしまった。

 相変わらず人の文章を書いてはいるが、自分のは書いていない日が続いている。

 少し変わったところといえば、自分自身の小説を動画版で作るなどの動きもしているというところか。別の創作もあり、創る機会は増えている。ただ、小説がないために、そちらの新作も出していきたい。カクヨムでの連載を習慣づけたら良いだろうか。

 

 仕事といえば、海外の漫画に携わることもあり、今まではそうそう経験できなかったこともできている。自分自身の世界は広がっているが、インプットの機会が多く、一目につくアウトプットが減っているように思う。

 これはずっと続けているのだろうなというものも、そうではなく、例えばお酒であれば毎日の晩酌も止めて外飲みオンリーの人間になっている。

 

 周囲が少しずつ変わっていくのを見ながら、毎度のことながら文学フリマ東京は開催される度に議論が起こっていて面白い。

 少し離れたところから見れば、月刊ムーやFF14シナリオライターの方が参加しているなど、バラエティーに富んだ人たちまで楽しんで参加しており、十分盛り上がっていていいのではないかと思う。プロがこようが人が少なかろうが、自分の作品に興味を持って、手に取ってもらうことの労力は変わらない。

 

 2025年も最後の月になってしまった。

 もう少し自分の創作を出していこうと反省しながら、ブログの更新ももう少し増やしていきたい。何気ないことでも書いていこう。

AIに呑まれた森井聖大

 もう彼の名を知っている人は少ないと思う。

 下手すれば顔も思い出せない人もいるのではないだろうか。

 実は彼のブログはちょこちょこ読んでいた。それほど頻繁に更新しない。連続でアップしたかと思えば、そこから数か月は空くということもしばしばあった。ある意味生存確認でもあるが、彼の自分自身をエンタメ化している話は肩の力を抜いて読める。

 

 ところが、最近は自分が見ているYoutubeチャンネルをおそらくAIを使って紹介するだけになってしまった。彼の手による修正もあまり入っていない。

 そうなると彼らしい、ねっちょりしたあの文体が全て失われてしまって、そこに彼らしさは無くなっている。私も仕事柄、インタビューの文字起しは100%AIに頼っているなど、AIを使っていないわけではない。しかし、度合いというものがあるだろう。

 私は初めてAIが憎いと思った。

 日々の1mmぐらいの楽しみではあるものの、森井聖大の作家性が失われていっていることにがっかりした。

 これからはAIで小説を書く人も増えるのだろう。

 それを隠すこともせず、AIを使いこなしたことで胸を張るのかもしれない。

 AIは使っても良いと思うが、それだけで描いたなら己の作家性はどこにあるというのか。森井聖大はその作家性を持ちながら吞まれていったが、最初から作家性を持たない者たちにどんな顔をすればいいのか、分からない。