大坂文庫

個人作家、上住断靱の活動記録

さらば

手術室に向かう母の足取りはよたよたとしている。
珍しく緊張しているようだ。
父は頻りに「頑張って」と声をかける。私は物書きなのに、気の利いた言葉が見つからず黙って母を見送っていた。
しかし、そこは母である。突如として振り向き、無言で手を振った。
私も無言で振り返した。
何も心配する事はない。
母は主治医を信用しており、主治医も自信を持っている。終わればまた元気になれる。
自身の事以外を心配して振り返ったのだ。だから力強く返しておいた。
医者をうんたら言う本は世間に数あれど、母は無事に戻ってきた。顔色も少しずつ良くなってきていた。
「あんたが慣れ親しんだものがなくなった」
私がそっちばかり使っていたのかと今になって知ったが、母はそれが残念だったのだろう。せめて逆であって欲しかったのだ。
母が戻ってくる少し前に父と共に母の一部であったそれを見た。弟は倒れるといけないので留守番をしていた。父は気分を悪くしたが、私はそうは思わなかった。むしろ生々しい肉親の中身が見られて光栄に思ったほどだ。
切り取られたそれは赤々とし、重量がある。一部が固くてそれがあった事を示していた。母の子育ての思い出は病巣になり、今は切り取られて、そこにある。
こうして私は二十と数年前に一寸世話になった母の一部に別れを告げた。
告げる事が出来た。