去る10月8日(日)第三回文学フリマ福岡に寝坊することなく出店してきた。
今回は東京以外で初の会場変更をした文フリとなる。
スタッフの努力が実り、フロアが一つになったことで一体感のある雰囲気が作られていた。
私は例の如く半官半民ならぬ半スタッフ半出店者で、設営にも加わり、本を売った。今回の福岡は最初から歴史小説が売れ、歴史小説を探し求めている猛者から、釣りはいりませんというイケメン、気になってましたと買ってくれる人と調子が良かった。
短編「忍嚆矢」は色々あって原価が上がり頁数の割に高めの値段となっている。値段は高かろうが、買う人は買うと思っているが、今回はそれを裏付けるほど、「面白そうですね。買います」という人がいて、エネルギーを貰った。
昼食後は睡魔に襲われ、うつらうつらしながら、離れた場所に陣取る妻の後頭部を見ていた。このままではいかぬと、眠気覚ましに徘徊して少し本を買った。
第一回から顔見知りだけれど、出店は初めてという人の本も買って、これから読むのが楽しみである。
撤収中に某スタッフちゃんのギターが度々勝手に倒れていたのが印象的だった。
終了後は懇親会に参加し、持ち芸の金勘定を披露した。
二次会にはど真ん中に座ったため、左右両方の面白い話を聞けた。主に参加したのは文学談義のほうである。久しぶりに作品について話せたので充実した一時となった。
途中、そろそろバスの時間だと京都代表は言う。
岩手代表は「度々やらかしているから、早く行った方がいい」と彼をバス乗り場へ向かわせた。
二次会終了後は数人を「ラーメン食いに行きましょう」とナンパし外に出たところで、京都代表から「バスに乗り遅れました」と連絡が入る。
それでもバスの乗り遅れ。これも風物詩だ。
トマトラーメンを食べているところで京都代表も再度合流し、日付をまたいで話し込む。最後は望月代表の一声で解散となった。一人一人と「では次回の文フリで」と別れていく。
宿の鍵は一つ。先に帰っている妻は起きてくれているだろうか。電柱に頭をぶつける韓国人のお兄さんを見ながらつまらぬ心配をした。
第三回文学フリマ福岡はつつがなく終了した。
過剰便所掃除
掃除のおばちゃんがオフィスを綺麗にしてくれるところはたくさんあるだろう。
別の仕事をしてくれる人がいて、オフィス内は自分の役目を全うできる社員で満たされるわけだ。おばちゃんがいなければ、自分たちでオフィスを綺麗にするしかない。
ところが、世の中には掃除のおばちゃんを雇いながら、掃除をさせず、社員の手で掃除をする「聖域」を設けた会社が存在する。曰く、掃除のおばちゃんなんぞ信用できるか、社員にやらせたほうがいいということだ。
その「聖域」は役員用のトイレである。
ここを役員が帰った後、掃除をする。その後、朝来た者が掃除をする。
そう、このトイレは誰も使用してない空白の時間を挟んだ後に掃除をするのだ。義務教育では学べない不思議がここにある。
掃除後は中間管理職が足跡を残さぬよう、つま先立ちで中に入りチェックをする。過剰便所掃除だ。
しかし、私だけが知っていることがある。
役員が帰ってから掃除をする男は白のタオルで便器を拭き、緑のタオルで手洗い場と鏡を拭く。
朝、掃除をする男は緑のタオルで便器を拭き、白のタオルで手洗い場と鏡を拭く。
打ち合わせ不足、ここに極めり。
なぜ知ったかは省略しよう。真実を知った私は役員用に作られた煌びやかなトイレが魔界にしか見えなくなった。
その魔界は良い設備を持つ愛しさと、サラリーマン社会の切なさと、虐げられた社員の心強さを私に与えてくれる。
尼崎文学だらけ 報告
先週、日曜日に尼崎文学だらけに行ってきた。
今年は一階のホールで開催となったので、だらけブースも通常ブースも見渡せてイイ雰囲気の会場となっていた。
例によって用意をあまりしていなかったから、嫁に叱られていた。宣伝も準備もきちんとやろうと反省した。
ポップ効果もあってか、割合出会い頭に買う人がいて前回よりも売れ行きは好調。
欲しいと話をしに来てくれる人もいて、ありがたく思った。ジョヴァンニ君から献本を貰ったり、友人達が来て、久々の会話を楽しんだ。
一段落したところで、隣を見ると赤いおべべでカモフラージュした赤子がいた。
青砥十氏が息子、青もち君である。
青もち君は私が笑うと笑う可愛らしい子であり、父からの英才教育の成果もあって、きちんとチラシの向きまでこちらに合わせて渡せるベイビーである。
そんな彼が私にカルピスのペットボトルを頻りに渡してくる。
何度か受け取っては返してを繰り返していると、自分の水筒を持って「かんぱーい」ときた。思わず噴き出すと、父曰く乾杯が好きで同い年ぐらいの従兄弟と、ずっと乾杯をしているのだという。
お昼時に眠気を誘う曲が流れていて危うかったところを彼と遊ぶことで乗り越えた。
久々のイベントで気分も高揚し、色々頑張り直そうかと褌を締め直した日となった。
星の輝きを手に
嫁の力を借りて、ようやくテーマ「悲憤」を書き上げた。
続くのは最後のテーマ「狂気」である。募集はまだしない。まずは悲憤を味わって欲しい。そして、「星の輝きを手に」を書き上げた時、足かけ六年かかった純文学の物語は終わりを告げるのだ。それは誠に寂しくもあり、一つの節目である。
物書きは懊悩を経て、その先に何を手に入れるのか、作家によってわからない。
懊悩を重ねた果てに、手にする「星の輝き」とは何か。
百年前から「オワコン」と言われていた純文学の答えを全人類が目撃する時がくる。
いくたまさん
織田作の実家近くに住んで七年経つというのに、今まで生玉祭に行ったことがなかった。大阪は谷町界隈に住む人間はこの日の為に普段使わない歩道橋を上り下りする。
今年は嫁を迎えたので連れ出し、祭りへと繰り出した。
祭りを楽しむ人を横目に織田作像は静かに佇む。
織田作の写真を撮っている私を横に孫を連れたおじいさんがベンチに腰をかけた。
「ここは写真を撮るところ?」
孫が問う。
「あぁ、そうや」
おじいさんは適当に答えた。
「なんで、写真撮らないの?」
「まず休憩や」
織田作の像は老人と幼女に目もくれず、私のカメラにも視線を向けることなく、祭りの騒ぎを聞きながら、静かに無頼派を今に伝えている。
余談ながら、この写真を撮る私にカメラを向ける嫁がおり、織田作に見られずとも私は十分なのであった。帰りにベビーカステラを50個買って今も食っている。