翠嶺クラフティング

個人作家、上住断靱の活動記録

星の輝きを手に

嫁の力を借りて、ようやくテーマ「悲憤」を書き上げた。

続くのは最後のテーマ「狂気」である。募集はまだしない。まずは悲憤を味わって欲しい。そして、「星の輝きを手に」を書き上げた時、足かけ六年かかった純文学の物語は終わりを告げるのだ。それは誠に寂しくもあり、一つの節目である。

物書きは懊悩を経て、その先に何を手に入れるのか、作家によってわからない。
懊悩を重ねた果てに、手にする「星の輝き」とは何か。
百年前から「オワコン」と言われていた純文学の答えを全人類が目撃する時がくる。

いくたまさん

織田作の実家近くに住んで七年経つというのに、今まで生玉祭に行ったことがなかった。大阪は谷町界隈に住む人間はこの日の為に普段使わない歩道橋を上り下りする。
今年は嫁を迎えたので連れ出し、祭りへと繰り出した。
祭りを楽しむ人を横目に織田作像は静かに佇む。
織田作の写真を撮っている私を横に孫を連れたおじいさんがベンチに腰をかけた。
「ここは写真を撮るところ?」
孫が問う。
「あぁ、そうや」
おじいさんは適当に答えた。
「なんで、写真撮らないの?」
「まず休憩や」
織田作の像は老人と幼女に目もくれず、私のカメラにも視線を向けることなく、祭りの騒ぎを聞きながら、静かに無頼派を今に伝えている。
余談ながら、この写真を撮る私にカメラを向ける嫁がおり、織田作に見られずとも私は十分なのであった。帰りにベビーカステラを50個買って今も食っている。

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早めの夏休み

今年は結婚休暇が夏休みと別に取れるということで、連休のない六月に早めの夏休みを取得した。
元いた谷町の家を片付けなければならないことと、仕事に厭気がさしていたこともあって、夏休みは忙しくもダラダラ過ごしている。ダラダラさせて頂いているというのもある。甲斐性のない私をひっぱたいて、田でも耕せと言わないでくれているのはありがたい。調子に乗るとそうなるかもしれないが。
この夏には、尼崎文学だらけをひかえ、文学フリマ大阪の準備を越えたら、テキレボ、文学フリマ福岡と遠征が待っている。
作品も書かなければならないが、本の制作費も稼がねばならぬ。
時間が出来たのだから、甲斐性だけはどうにかしたいと思う夏休み。来年の目標は「甲斐性なし」からの脱却になるだろうが、出来れば今年中になんとかしたい。

君はこれからだから

タイトルは会社でよく聞く言葉だ。
君はこの会社にずっといてキャリアを積み上げていくんだろうという無責任なおせっかいである。ここで今、定年まで勤めた、勤め上げるであろう自分の生き方を語るための枕言葉だ。
車のハンドルを握っていなければ眠りたい話であり、会社のハンドルを握っているならそいつを今日までクビにしなかった奴とそいつをクビにする話である。
何故、無責任にも万人の男がそうなると決めつけるのか。
それが真っ当な生き方と本当に言えるのか。
晩酌しながら自問自答すれば回答は「妻には愚痴がない」で全てわかる。
愛ではなく共有だ、と。

森井聖大改名す

どうでもいい話である。
むしろ愚痴である。

私が言う「文学フリマドンキホーテ」こと森井聖大が2017年を機に筆名を変えた。それが四月馬鹿かどうかはおいて、田舎に引っ込んでわかばばかり吸っていると人間、こうも耄碌するのかと呆れるばかりだ。
だが、彼は私を応援してくれている一人であり、一年に一回しか会わないのに飲みへ付き合ってくれる姿勢は好ましい。
何が言いたかったのか。
どうかこの記事を読んだ方は「森井聖大」をぐぐって新しい筆名をなんと読んだらいいのか、私の代わりに質問して頂きたいのだ。

金柑

行きつけのバーにジンベースの金柑酒が出ていた。
隣に陣取っていた中年の女が私を田舎者呼ばわりして「大阪で金柑は買う物よ」と宣った。私が人生で初めて金柑を口にしたのは亡き祖父がよく潜った山に同行した折に「もいで皮だけ食え」と言ったから、金柑をもいで川で洗って食べた。そのことから、金柑は「もぐもの」と思っていた。
そんなことを中年女に話しつつ、飲んで皮を食んだ。流石にイイ金柑を使っているなと感心しながら。
中年女の友達が同じものを頼み飲んでいたが、退席した後を見ると皮が随分と残っていた。
谷町ですら田舎呼ばわりした。バーのマスターの娘さんは谷町でバーを営んでいることすら知らぬらしい。退席間際にあれこれ偉そうにしていたところを見ると、呑兵衛として無粋であり、物を知らぬということはこれであると嘆息した。
同席した友人との会話は楽しかったが、中年女はイケていなかった。齢は六十を超えているだろう。自分がその頃にはそうならぬよう気をつけようと、背後で性風俗論をぶちまける男たちの話に辟易しながら家に飛び込んだ。

書き上がらない日々

ここのところ作品を書き上げられていない。
と、言う以上は久々に書き上げられたわけだが、私が思う書き上がらない理由は三つある。

一、プロットが甘い。甘くて筆が止まってしまう

二、いいものを求めすぎている。まず書き上げればいいのに、途中で見直しに入る

三、疲れすぎている

今年は「書く年」と決めて三ヶ月で掌編一つなのだから、イケていない。もっとも、これを試練と見るなら、これほど悩むことはいいことだろう。
いっそ書く事を止めてしまおうかとも思って筆を放ってみたが、ふいに出るのは感想をくれた人々の言葉だ。思い出してまた筆をとる。取り敢えずこれだけは仕上げようと思いながら。
途中、Kindleで買った本を読むだけに専念したりもした。
作品を作る事だけでなく電子書籍の問題も考えたり、でもまだ漸く体制が整ったばかりで売れていないから偉そうなこともいえんなとメモにとどめたりした。
そんなこんなで一つ出来た。
一つ出来たらなんだかほっとした。